森の精霊

<章=一、精霊の住み処>

 樹齢百年の樹に染みついて、人間の街をみていた。

 彼は森の精霊。 多くの森の精霊が棲んでいた森は、人間生活の近代化が進み、整地された街や工場に変わっていった。

 空の遥か彼方。彼と親しくしている雲がいました。 三ヶ月で地球を一周する群の雲は、彼に云いました。「どうして人間たちに、森を守ってもらうように頼まないの?」 彼は云いました。「人間たちにはね、僕の姿は見えないんだ。伝達手段がなんだよ……。それに誰が誰を守るなんて考えは傲慢以外のなにものでもないと思うよ」

<章=二、談話>

「人間の希望の粒が光の粒に当たって砕けたのが妖精なんだって聞いたことがあるよ」「それじゃあ、精霊っていうのは?」「あれは、……そうだね。妖精が大人になったら精霊なのかな?」「えー。でも、精霊はモノに住んでるんでしょ。妖精は空を飛んでるよ」「それは表面的な問題だよ。宿るのと、空を飛ぶのにどれほどの違いがあるのさ。『羽根をなくした妖精』ってね。飛ぶのに疲れたんだよ」「それじゃあ、精霊は妖精なの?」「それは、『大人は子どもなの?』っていってるのと同じだよ。ある一点から見て『そうだ』としか言い様がないよ」「んー……? 難しいような、簡単なような……」「簡単だよ。成住壊空《じょうじゅうえくう》を流転する他の生命と変わらないさ。住んでるんじゃなくて、融けてるっていう違いだけでね。ただ、それを難しいと感じたり、不思議だと思うのはとても良いことだと思うよ」

<章=三、葵と梓>

 葵と梓。二人は兄弟であった。 兄の葵は、弟の梓が三歳のときに、病気で亡くなった。その時、葵は十一歳だった。 とても聡明な少年で、友だちも多く、博学多識だった。こもりきって勉強ばかりをしていたわけではなかったが、人よりもたくさんの本を読んでいた。

 梓は、ものごころがおぼろげながらについてきた四才頃から、自分には見えて人には見えないものがあるのに気づいた。 それが兄の葵だった。 寝るのも遊ぶのも葵と一緒であった。

『独り言の目立つ子ども。一人遊びの好きな子ども』 周りからはそう思われた。

「違うよ。お兄ちゃんがいるんだよ」 最初のうちは、両親さえも何か異常があるのかと心配して病院に検査へ連れて行ったりしていたが、結局は解離性同一性障害と診断された。 しかし、当の両親は、葵と両親しか知り得ないことを梓が知っていると知って、「本当に葵がいるのね」と納得し、ふたり兄弟としての梓を認めるようになった。「でも、目には見えないから、本当にそう思ってるのかはわからないけどね」 葵は冷静に言った。「それでも、葵には見えているからいいよ」 その優しげな顔を梓は忘れることができなかった。

<章=四、訪問者>

 さて、先ほどのふたりはとろとろと森の中の道を歩いていた。 ここはフェンスに区切られた立入禁止の場所であり、ここ一ヶ月間誰も出入りしていない。

「どうしてここに来たの?」 梓がたずねる。「昔から森っていうのは、『暗黒の森』って云われて、死人《しにびと》の集まるところと云われてるんだよ。今ではあまり聞かないけどね」「ふーん」「それと同時に神様が天から降り立つ場所とも云われていて、森を木偏に土で杜と書いたりするのはその名残なんだ。だから樹は、天と地の架け橋として機能しているんだよ」 こういうときの葵は答えを先のばしにしている時だとわかっているので、梓は心の中でワクワクしながら歩いている。

 しばらくすると、目の前の大きな樹に浮かび上がるように人影が見えた。「ねぇ、お兄ちゃん。人がいるよ」「人? ここは立入禁止の場所だよ。めったに人なんか居るわけはないよ」「じゃぁ、人じゃないのかも」 そう言って梓は、人影らしきものの方を見る。「こんにちは」 梓は遠慮なくその人影に声をかけた。「こんにちは」 その人影は答える。「……どうして此処に来たの?」 人というには、あまりにも現実離れしていて、梓はなんと表現したらいいのかわからなかった。透き通るほどの白い肌と濃い緑色の長い髪。人の形をしているけれど、人間らしさを感じない。「わかんない。お兄ちゃんと一緒に来たから」 彼には葵が見えているのか分からなかったが、梓はそう答えた。「そうなんだ」 彼には葵は見えているようだった。葵に向けて話しかける。「こんにちは」 それがわかったのか、葵も彼に声をかけた。

<章=五、理由>

「僕がここに来たのは、僕がどうしてここにとどまり続けているのか考えようかと思って……」 葵は話し始める。「今まで僕のことを見ることのできる梓の側にいたけど、それもどうなのかなって。森の妖精は森の樹と話ができて、天へと繋がる道を知っていると聞いて来たんだ」「そう……」 彼は静かにそう言った。あれだけの言葉ですべてを理解したかのような響きがあった。「お兄ちゃんいなくなっちゃうの?」 梓が悲痛な声をあげる。「……さぁ。僕がどうしてここにとどまり続けているのかわからないから、いなくなるのかどうかもわからない。だからここに来てみたのさ」 葵は梓に微笑みながら答える。

「あなたは妖精なんですか?」 梓は彼に顔を向け尋ねた。「違う」「じゃぁ何?」「精霊と呼ばれている。それが本当にそうなのかは知らない」「妖精はいないの?」「……そうだね……、妖精はあんまり見なくなったね」 精霊は呟くように言う。「そうなの?」 梓が言う。「『人間の希望の粒が光の粒に当たって砕けたのが妖精』だからね。君が言ってたことだよ」 葵を見やりながら答える精霊。「え? どうしてその話を?」「僕には森の中の話し声は全部聞こえるんだ」「あれって嘘じゃないの? 本に書いてあったんだよ?」 葵は少し驚いたように言う。「妖精はお伽話から生まれるんだから、『嘘』なんかじゃないよ」「……じゃあ、あなたは妖精の大人?」 精霊は微笑して答える。「さあ、それはよくわからない。僕には記憶というものはないから」「記憶がないっていうことは、なんにも覚えてないの? 子どもの頃のこととか、お父さんとかお母さんのこととか、それに、友達のこととか……」 梓はすでにその精霊に親しみを感じていた。「……さぁ、どう云えばいいのかな。君だって、ごく小さい頃のことは覚えてないだろう? 覚えていたとしても、それは後からの推測だったり、伝聞によるものだよ。僕にはそんなものはないからね」「親がいないの?」「そういう繋がりは何処にもないから。でも、本当は縁にさえ触れれば、一万年前のことだって、一億年前のことだって思い出すことはできるんだけどね。ただそれは人間の謂うところの『思い出』とはちょっと違うけどね」

 遠くの空にはジュラルミンの鳥が大きな音を立てて飛んでいる。もうすぐここも切り拓かれ、整備されて、整然とした『閑静な住宅地』になるのだろう。「寂しい?」「……それは、どうしてそう思うの?」「普通、お父さんやお母さんがいないと寂しいよ」「僕の親は謂うなれば人間だよ。だから寂しくはないさ」

「あ、触ったりできる?」 弟が精霊に訊く。「さあ。出来るかもしれないね」「それじゃ、握手」 そういって、手を差し出す。 真っ白い透き通りそうな彼の肌は雪女のように冷たそうでしたが、触れてみると意外に人肌でした。

<章=六、微睡みの中で>

「もう。あなた達は! あの辺は工事中で危ないから、行っちゃダメって言ったでしょう?」 ふたりはあの後、森の中で寝入っているのを、管理業務の人に見つけられ、自宅まで強制送還される。事故はなかったので、今後こういう事のなきようと厳重注意して帰っていった。「……」 ふたりは黙って、母親の言う事を聞いていました。大して反省をしていないようですが。もちろん母親には、葵の姿は見えていませんが、ふたりが一緒にいることをわかって話します。

 月明かりの差し込む部屋―――。 明かりを消したての部屋に、微睡む前の葵と梓。「明日もう一回行ってみようか?」「うん」 静かに横で返事をする、葵。「『人間の希望の粒が光の粒に当たって砕けたのが妖精』か……。希望って何なんだろうね」

「それは『夢』だ…と云ってる詩があったけどね」「どんな詩?」「喜びを 悲しみを 語ろう 清流のほとりで 森の陰りで 夢を希望と なぞりながら」「よくそんな言葉覚えられるね―――……なんかむつかしいし……」 語尾が不鮮明になっていく。梓は微睡みながら答える。「おやすみ」

<章=七、白鼠>

 兄弟は学校帰り、昨日と同じように秘密の裏道を通って、鬱蒼とした森の中へ入っていった。 森の中は、昼間でも薄暗い。 もうすぐ、昨日の場所に辿り着こうとするところで、一匹の白い鼠が目の前に現れた。「あ……。鼠」 梓が声を出す。 鼠は不思議と逃げない。その鼠は両手に余るぐらいの大きさで、さながら鼠の王様といった風貌だ。 梓はその鼠に興味を持ち手を出したが、それでも逃げずに手の中に収まり、とどまっています。「『ハーメルンの笛吹き男』に出てくる、鼠みたいだ……」 葵は呟く。「ハーメルンの笛吹きって?」「ああ……。大人の我が侭は、いずれ子どもに返ってきて、それは結局自分の首を絞めているんですよっていうお話。家にあるから読んでみるといいよ」「一緒に?」 兄は頷く。

「秦皮《とねりこ》の匂いがする」 突然、鼠は喋り始めました。「え?」「白鼠?」 なぜ鼠が喋るのかなどわからない二人でしたが、不思議なことに慣れてきているのでそれほど驚きませんでした。「貴殿に尋ねる。この辺りで秦皮の大樹を見かけなかったかね?」 白鼠は丁寧に訊ねる。「トネリコ? どれがトネリコかわからない」「そうか、それでは仕方がない。して、貴殿らは何処へ?」「精霊のとこ」「精霊? ふむ、一緒にそこに連れって行ってくれないかね?」「うん、いいよ」 兄は白鼠を抱き抱えながら進みました。 暫く進むと、昨日の櫟《イチイ》の樹の場所に着きました。 すると、手に乗っていた白鼠は、手からするりと降りて木に近づく。「やはり、そうか。お前たちが会いにきた精霊とは、無二の親友でね」 そういって、白鼠は、「秦皮。サヴェリエフだ。何処にいるのだ?」 大きな声ではなかったが透き通って木霊する。 木の中からすっと透き通るように精霊が出てくる。「―――久しぶりだね、サヴェリエフ。―――でも、私は秦皮ではないよ。今は、名前がない」 旧友の久方振りの訪問に些かの喜びと驚きを表しながら、どことなく寂しそうな瞳。「なんとまあ、そうであったか。気配はすれども、姿は見えずとは正にこの事。不覚であった」「また、来たんだね。ようこそ」 秦皮は兄弟の方を見遣り声を掛ける。「こちらの御仁は?」 サヴェリエフは尋ねる。「いるようでなかなかいない人たちさ」

<章=八、コンクリートの下に>

「この辺りももうすぐ伐採されて、街に変わっていくから…」「それでは、どこかに移動せねばならんな」「だから今度は誰にも邪魔されない奥地に隠棲しようかな―――どう思う? 希望通りにはいかないだろうけど」「大変だな。便利が悪い。―――もっともお前にはそんなこと関係ないだろうけど」「―――…関係なくはないけど―――」 風の戦ぐ音。秦皮とサヴェリエフは何やら話をしている。 兄弟は傍らに静かに座っているが、何の話か見当もつかない。「何処かに行っちゃうの?」 合間を見計らって弟が精霊に訊ねる。「うん。多分ね。この森がなくなると同時にまた別のところに―――」「何処? この近く?」「それはわからない。―――もしかしたら、遠くかもしれないし、もしかしたら、この近くかもしれない」「誰が決めるの? 自分で決められないの?」 精霊とサヴェリエフは一瞬戸惑いの表情を浮かべ、微苦笑する。「自分で決めて、自分で動けるのはこの世でただ人間だけだよ」 精霊はいとおしげに弟を見つめながら答える。「え?」 兄弟は不思議そうな表情で精霊を見る。「……でも、あと一万年ぐらい生き長らえれば、世界中の樹ととけあって、何処へでも好きなところに行けるんだろうけど」「―――森が生きてる限り精霊は生き続けるんだよね」 兄が訊く。「そうだよ。だから地球上の森はいつも同じ生命なんだよ」「ねぇ…、どうすればここにいられるの?」 弟は精霊に訊く。「それば僕が…?」「―――うん」 精霊は少々考え込む仕草をして、「僕は此処にいるんじゃなくて、棲んでいるんだ。―――森がなくなれば、此処にいるなんてことは無理だよ……―――」 ゆっくり歯切れよく云う。「そうなの?」 精霊は優しい微笑みを返して、「……そう……。まぁ、それは人間も同じなのだけれど」「?」「まだ、君にはわからないかもね。でも、わからないけれど、見えてる。そのことの方が大事なんだよ。本当はね」 そう云って微笑む精霊はとても曖昧な微笑みです。「人間は泣きながら生まれて、笑いながら死んでいくけれど、僕たちは笑いながら生まれて泣きながら死んでいくんだよ。ただそれだけの違いだよ」 追い打ちをかけるような哲学的な言葉に、サヴェリエフが尋ねる。「流石は秦皮切っての博学。何故にそこまで人間の味方をするのか?」「同じ問を群の雲にされたことがあるよ。僕たち精霊は人間から生まれたものなんだよ。……だから、人間の味方をしてるわけじゃなくて、人間のことが好きなんだよ。程度はあるけどね」

<章=九、ニュータウン>

「そうか…。それならば、何も云うことはない」「無頼の雲にもそう云われたよ」 兄は、ぼーっと空を眺めている。 弟は、精霊を眺めている。 しばらくして、「これ」 そういって精霊は、自分の枝を差し出す。「僕自身ではないけれど、僕の部分。あげる」「?」 きょとんとする弟。「これを土に植えて根が生えたら、精霊が宿るよ―――」「え! ホント!?」「…多分」「多分?」「…ちゃんと新芽が出て、育ったらっていうこと」「大丈夫。ちゃんと世話する」「そう、それならいいけど」

 ―――五年後。 あそこはニュータウンとして生まれ変わった。 樹はなんとか根づき、すくすくと育っている。「こんな風に、精霊を全部ここに連れてこれたらいいのにね?」「全部? 論理的に不可能だよ。それよりは、その精霊がそこでずっと暮らせることを願った方がいいよ」

「人は誰でもこころの中に森を守ってるさ」 彼はこの樹が大樹になるのを心待ちにしている。

 空の遥か彼方。彼と親しくしている雲がいました。 三ヶ月で地球を一周する群の雲は、彼に云いました。「どうして人間たちに、森を守ってもらうように頼まないの?」 彼は云いました。「人間たちにはね、僕の姿は見えないんだ。伝達手段がなんだよ……。それに誰が誰を守るなんて考えは傲慢以外のなにものでもないと思うよ」

<章=二、談話>

「人間の希望の粒が光の粒に当たって砕けたのが妖精なんだって聞いたことがあるよ」「それじゃあ、精霊っていうのは?」「あれは、……そうだね。妖精が大人になったら精霊なのかな?」「えー。でも、精霊はモノに住んでるんでしょ。妖精は空を飛んでるよ」「それは表面的な問題だよ。宿るのと、空を飛ぶのにどれほどの違いがあるのさ。『羽根をなくした妖精』ってね。飛ぶのに疲れたんだよ」「それじゃあ、精霊は妖精なの?」「それは、『大人は子どもなの?』っていってるのと同じだよ。ある一点から見て『そうだ』としか言い様がないよ」「んー……? 難しいような、簡単なような……」「簡単だよ。成住壊空《じょうじゅうえくう》を流転する他の生命と変わらないさ。住んでるんじゃなくて、融けてるっていう違いだけでね。ただ、それを難しいと感じたり、不思議だと思うのはとても良いことだと思うよ」

<章=三、葵と梓>

 葵と梓。二人は兄弟であった。 兄の葵は、弟の梓が三歳のときに、病気で亡くなった。その時、葵は十一歳だった。 とても聡明な少年で、友だちも多く、博学多識だった。こもりきって勉強ばかりをしていたわけではなかったが、人よりもたくさんの本を読んでいた。

 梓は、ものごころがおぼろげながらについてきた四才頃から、自分には見えて人には見えないものがあるのに気づいた。 それが兄の葵だった。 寝るのも遊ぶのも葵と一緒であった。

『独り言の目立つ子ども。一人遊びの好きな子ども』 周りからはそう思われた。

「違うよ。お兄ちゃんがいるんだよ」 最初のうちは、両親さえも何か異常があるのかと心配して病院に検査へ連れて行ったりしていたが、結局は解離性同一性障害と診断された。 しかし、当の両親は、葵と両親しか知り得ないことを梓が知っていると知って、「本当に葵がいるのね」と納得し、ふたり兄弟としての梓を認めるようになった。「でも、目には見えないから、本当にそう思ってるのかはわからないけどね」 葵は冷静に言った。「それでも、葵には見えているからいいよ」 その優しげな顔を梓は忘れることができなかった。

<章=四、訪問者>

 さて、先ほどのふたりはとろとろと森の中の道を歩いていた。 ここはフェンスに区切られた立入禁止の場所であり、ここ一ヶ月間誰も出入りしていない。

「どうしてここに来たの?」 梓がたずねる。「昔から森っていうのは、『暗黒の森』って云われて、死人《しにびと》の集まるところと云われてるんだよ。今ではあまり聞かないけどね」「ふーん」「それと同時に神様が天から降り立つ場所とも云われていて、森を木偏に土で杜と書いたりするのはその名残なんだ。だから樹は、天と地の架け橋として機能しているんだよ」 こういうときの葵は答えを先のばしにしている時だとわかっているので、梓は心の中でワクワクしながら歩いている。

 しばらくすると、目の前の大きな樹に人影が見えた。「ねぇ、お兄ちゃん。人がいるよ」「人? ここは立入禁止の場所だよ。めったに人なんか居るわけはないよ」「じゃぁ、人じゃないのかも」 そう言って梓は、人影らしきものの方を見る。「こんにちは」 梓は遠慮なくその人影に声をかけた。「こんにちは。……どうして此処に来たの?」 その人影は答える。 人というには、あまりにも現実離れしていて、梓はなんと表現したらいいのかわからなかった。透き通るほどの白い肌と濃い緑色の長い髪。人の形をしているけれど、人間らしさを感じない。「わかんない。お兄ちゃんと一緒に来たから」 彼には葵が見えているのかわからなかったが、梓はそう答えた。「そうなんだ」 彼には葵は見えているようだった。葵に向けて話しかける。

「あ、触ったりできる?」 弟が精霊に訊く。「ああ。多分出来るんじゃないかな」「それじゃ、握手」 そういって、手を差し出す。 真っ白い透き通りそうな彼の肌は雪女のように冷たそうでしたが、触れてみると意外に人肌でした。

<章=五、理由>

「僕がここに来たのは、妖精を見るためなんだ。そんなのはお話の中だけだってお父さんは言ってたけど、お婆ちゃんは昔この森で妖精を見たって言うんだ。お母さんには危ないから勝手に入っちゃだめだって言われたけど、見たかったから……内緒でフェンスを越えて入ってきたんだ」「危ないとこもあったよね、面白かったけど」

 それを楽しそうに聞いている精霊。「……そうだね……、確かに妖精はあんまり見なくなったよね…」 精霊は呟くように言う。「そうなの?」 梓が言う。「さっき、君が言ってたじゃないか。『人間の希望の粒が光の粒に当たって砕けたのが妖精』だって」「え? あれって嘘じゃないの? 本に書いてあったんだよ?」 葵は少し驚いたように言う。「妖精はお伽話から生まれるんだから、『嘘』なんかじゃないよ」「……じゃあ、君は妖精の大人?」 精霊は微笑して答える。「さあ、それはよくわからないね。僕には記憶というものはないから」「記憶がないっていうことは、なんにも覚えてないの? 子どもの頃のこととか、お父さんとかお母さんのこととか、それに、友達やら、うれしかったこととか…」「……さぁ、どう云えばいいのかな。君だって、ごく小さい頃のことは覚えてないだろう? 覚えていたとしても、それは後からの推測だったり、伝聞によるものだよ。僕にはそんなものはないからね」「親がいないの?」「そういう繋がりは何処にもないから。でも、本当は縁にさえ触れれば、一万年前のことだって、一億年前のことだって思い出すことはできるんだけどね。ただそれは人間の謂うところの『思い出』とはちょっと違うけどね」 遠くの空にはジュラルミンの鳥が大きな音を立てて飛んでいる。もうすぐここも切り拓かれ、整備されて、整然とした『閑静な住宅地』になるのだろう。「寂しい?」「……それは、どうして? そう思うの?」「普通、お父さんやお母さんがいないと寂しいよ」「僕の親は謂うなれば人間だよ。だから寂しくはないさ」

<章=六、微睡みの中で>

「もう。あなた達は! あの辺は工事中で危ないから、行っちゃダメって言ったでしょう?」 ふたりはあの後、森の中で寝入っているのを、管理業務の人に見つけられ、自宅まで強制送還される。事故はなかったので、管理業務の人は警察には報告せず、今後こういう事のなきようと厳重注意して帰っていった。「……」 ふたりは黙って、母親の言う事を聞いていました。大して反省をしていないようですが……。 もちろん母親には、葵の姿は見えていませんが、ふたりが一緒にいることをわかって話します。「でもね、いたんだよ。妖精。あ、精霊か」 梓は黙っている葵の横で母親に話しかけました。「……どんなだったの?」「あのね、手が暖かかった。それと、さびしそうだった―――」 葵は横で黙っていました。「でも、もう行っちゃダメよ。精霊はお母さんと違ってあなた達を守るためにいるんじゃないんですからね」

 月明かりの差し込む部屋―――。 明かりを消したての部屋に、微睡む前の葵と梓。「明日もう一回行ってみようか?」「うん」 静かに横で返事をする、葵。「『人間の希望の粒が光の粒に当たって砕けたのが妖精』か……。希望って何なんだろうね」

「それは『夢』だ…と云ってる詩があったけどね」「どんな詩?」「喜びを 悲しみを 語ろう 清流のほとりで 森の陰りで 夢を希望と なぞりながら」「よくそんな言葉覚えられるね―――……なんかむつかしいし……」 語尾が不鮮明になっていく。梓は微睡みながら答える。「おやすみ」

<章=七、白鼠>

 兄弟は学校帰り、昨日と同じように秘密の裏道を通って、鬱蒼とした森の中へ入っていった。 森の中は、昼間でも薄暗い。 もうすぐ、昨日の場所に辿り着こうとするところで、一匹の白い鼠が目の前に現れた。「あ……。鼠」 弟が声を出す。 鼠は不思議と逃げない。その鼠は両手に余るぐらいの大きさで、さながら鼠の王様といった風貌だ。「『ハーメルンの笛吹き男』に出てくる、鼠みたいだ……」 兄は呟く。 鼠は兄の手の中に収まり、とどまっています。「ハーメルンの笛吹きって?」「ああ……。大人の我が侭は、いずれ子どもに返ってきて、それは結局自分の首を絞めているんですよっていうお話。家にあるから読んでみるといいよ」「一緒に?」 兄は頷く。「秦皮《とねりこ》の匂いがする」 突然、鼠は喋り始めました。「え?」「白鼠?」「貴殿に尋ねる。この辺りで秦皮の大樹を見かけなかったかね?」 白鼠は丁寧に訊ねる。「トネリコ? どれがトネリコかわからない」「そうか、それでは仕方がない。して、貴殿らは何処へ?」「精霊のとこ」「精霊? ふむ、一緒にそこに連れって行ってくれないかね?」「うん、いいよ」 兄は白鼠を抱き抱えながら進みました。 暫く進むと、昨日の櫟《イチイ》の樹の場所に着きました。 すると、手に乗っていた白鼠は、手からするりと降りて木に近づく。「やはり、そうか。お前たちが会いにきた精霊とは、無二の親友でね」 そういって、白鼠は、「秦皮。サヴェリエフだ。何処にいるのだ?」 大きな声ではなかったが透き通って木霊する。 木の中からすっと透き通るように精霊が出てくる。「―――久しぶりだね、サヴェリエフ。―――でも、私は秦皮ではないよ。今は、名前がない」 旧友の久方振りの訪問に些かの喜びと驚きを表しながら、どことなく寂しそうな瞳。「なんとまあ、そうであったか。気配はすれども、姿は見えずとは正にこの事。不覚であった」「また、来たんだね。ようこそ」 秦皮は兄弟の方を見遣り声を掛ける。「こちらの御仁は?」 サヴェリエフは尋ねる。「いるようでなかなかいない人たちさ」

<章=八、コンクリートの下に>

「この辺りももうすぐ伐採されて、街に変わっていくから…」「それでは、どこかに移動せねばならんな」「だから今度は誰にも邪魔されない奥地に隠棲しようかな―――どう思う? 希望通りにはいかないだろうけど」「大変だな。便利が悪い。―――もっともお前にはそんなこと関係ないだろうけど」「―――…関係なくはないけど―――」 風の戦ぐ音。秦皮とサヴェリエフは何やら話をしている。 兄弟は傍らに静かに座っているが、何の話か見当もつかない。「何処かに行っちゃうの?」 合間を見計らって弟が精霊に訊ねる。「うん。多分ね。この森がなくなると同時にまた別のところに―――」「何処? この近く?」「それはわからない。―――もしかしたら、遠くかもしれないし、もしかしたら、この近くかもしれない」「誰が決めるの? 自分で決められないの?」 精霊とサヴェリエフは一瞬戸惑いの表情を浮かべ、微苦笑する。「自分で決めて、自分で動けるのはこの世でただ人間だけだよ」 精霊はいとおしげに弟を見つめながら答える。「え?」 兄弟は不思議そうな表情で精霊を見る。「……でも、あと一万年ぐらい生き長らえれば、世界中の樹ととけあって、何処へでも好きなところに行けるんだろうけど」「―――森が生きてる限り精霊は生き続けるんだよね」 兄が訊く。「そうだよ。だから地球上の森はいつも同じ生命なんだよ」「ねぇ…、どうすればここにいられるの?」 弟は精霊に訊く。「それば僕が…?」「―――うん」 精霊は少々考え込む仕草をして、「僕は此処にいるんじゃなくて、棲んでいるんだ。―――森がなくなれば、此処にいるなんてことは無理だよ……―――」 ゆっくり歯切れよく云う。「そうなの?」 精霊は優しい微笑みを返して、「……そう……。まぁ、それは人間も同じなのだけれど」「?」「まだ、君にはわからないかもね。でも、わからないけれど、見えてる。そのことの方が大事なんだよ。本当はね」 そう云って微笑む精霊はとても曖昧な微笑みです。「人間は泣きながら生まれて、笑いながら死んでいくけれど、僕たちは笑いながら生まれて泣きながら死んでいくんだよ。ただそれだけの違いだよ」 追い打ちをかけるような哲学的な言葉に、サヴェリエフが尋ねる。「流石は秦皮切っての博学。何故にそこまで人間の味方をするのか?」「同じ問を群の雲にされたことがあるよ。僕たち精霊は人間から生まれたものなんだよ。……だから、人間の味方をしてるわけじゃなくて、人間のことが好きなんだよ。程度はあるけどね」

<章=九、ニュータウン>

「そうか…。それならば、何も云うことはない」「無頼の雲にもそう云われたよ」 兄は、ぼーっと空を眺めている。 弟は、精霊を眺めている。 しばらくして、「これ」 そういって精霊は、自分の枝を差し出す。「僕自身ではないけれど、僕の部分。あげる」「?」 きょとんとする弟。「これを土に植えて根が生えたら、精霊が宿るよ―――」「え! ホント!?」「…多分」「多分?」「…ちゃんと新芽が出て、育ったらっていうこと」「大丈夫。ちゃんと世話する」「そう、それならいいけど」

 ―――五年後。 あそこはニュータウンとして生まれ変わった。 樹はなんとか根づき、すくすくと育っている。「こんな風に、精霊を全部ここに連れてこれたらいいのにね?」「全部? 論理的に不可能だよ。それよりは、その精霊がそこでずっと暮らせることを願った方がいいよ」

「人は誰でもこころの中に森を守ってるさ」 彼はこの樹が大樹になるのを心待ちにしている。