形のない形(1)

<章=1> 手術開けの夕方、控室へ戻り、コーヒーを一服する浅野隆弥《あさのたかや》。 彼は、森山病院で外科医として勤務している。一八五センチの身長と顎鬚、少し切れ長の瞳が外見上の特徴だ。

 コーヒーを飲みながら、このあとの予定は大して詰まっていないので、家に電話をして慶嗣《けいし》の都合がよければ外で夕食でもどうかと思案している隆弥をデスクの上に置きっぱなしにしてあった携帯電話の呼び出し音が中断する。「はい。浅野です」「隆弥さん」 電話の先は慶嗣だった。「タイミングがよかったな。ちょうど連絡しようかと思っていたところだ。何かあったのか?」「隆弥さん…。今から、そっちに行っていい?」 電話の相手に話しかけると、元気のない声が帰ってくる。日頃歯切れのいい話し方をする慶嗣にしてはどうもおかしいと首をひねる。「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」「手、を………思って、…冷やした」「何?」 慶嗣の突然の言葉に動揺する隆弥。よく聞き取れなかったが壊死という単語が確かに入っていた。何故かはわかっているのに何故という言葉が隆弥の頭を覆う。

 慶嗣は端的に言うと、身体完全同一性障害と呼ばれる、自分の身体と自分の知覚している身体の差異に強い違和感を感じ、自身の肢体を失いたいと考える症状を有していた。 元々カメラの前に立つのが好きだという慶嗣、それが高じてモデルとして仕事をしている慶嗣は、他人が見ればどこにも身体に欠損などない美しいプロポーションをしているが、本人はそれに違和感を感じるらしい。何度となく制止もし、取り返しのつかないことなのだからカウンセリングを受けて慎重に考えるべきだと話し合ってきたのであるが、手遅れなのかもしれない。

「救急車を呼んで、そっちに行こうと思ってるんだけど」「そうだな。そうした方がいいな」 極端に焦っているのが判るほどミスタイプを繰り返しながら、慶嗣のカルテを院内端末画面に呼び出し、受付に受け入れ手配をしつつ、平静さを保つためにコーヒーを一気に飲み干した。

 程なくして救急車で慶嗣が到着した。「慶嗣!」「…隆弥さん…」「大丈夫か? とりあえずストレッチャーで運ぶぞ」 そういうと振り返り、「お願いします」 待機していた看護師に声をかけると、慶嗣を持ち上げストレッチャーに乗せ診察室へと運んだ。

「何時間くらい冷やした?」 隆弥は看護師に初期治療の指示を出し、バイタルを見ながら慶嗣にやさしく話しかける。内心、慶嗣の顔色に動揺している隆弥であったが、相手をまずリラックスさせるためにやさしく声をかけるという医師としての職業意識と習慣的な行為によって平静を保とうとしている。「八時間くらい…かな」 バイタルは脈拍、血圧共に高いが正常な生体反応で問題ない。体温も微熱だが、これも正常な反応だ。「痛みはどうだ?」「う…ん。ちょっとあるかな」「わかった」 左腕の凍傷は見るからに痛々しく既に真皮までに達しているように見て取れる。「俺の腕はどうなる?」 慶嗣はそれこそが本当に訊きたいことなのだというふうに言葉を発する。「凍傷の経過を見て壊死していれば……選択の余地がない。切除するしかないだろうな」 医師として見たままの判断を伝えると目に見えて安心した顔つきになる慶嗣に、覚悟の上でのことなのだと今更ながらに感じる。

 入院治療を受けた慶嗣は慶嗣の望みどおり、壊死が始まっていた左腕を切断処置するという診断を受けた。 手にチクチクするような痛みを感じながら硬膜外麻酔の後、全身麻酔のマスクをあてがわれ、ものの数秒で意識を失った。その時の慶嗣の表情《かお》はひたすらに微笑みだった。 その微少《えみ》は写真に納めたくなるほどの魅力を放っていたのだが、この笑みの原因が何であるかを考えると隆弥はその気持ちを持て余し、努めて冷静に医師としての職務を果たすことに専念することでその気持ちを後回しにすることを決めたのだった。