<章=2>
「お兄ちゃん。静流さん来てるって? 入っていい?」 綾華《あやか》ちゃんの声がドアの向こうから聞こえる。「いいぞ」 ため息をつきながら、宗司が答えると、ドアを元気に開けて入ってくる。「静流さん。こんにちは」「こんにちは。久しぶり」「タロ。ただいまー」 足元のタロをなでるとうれしそうに尻尾を振っている。
彼女は東江綾華《あがりえあやか》。宗司の二つ下の妹で、高校一年生。兄妹なだけあって、どことなく雰囲気が似ている。イケメン女子といってもいいかも。少なくとも学ランは似合いそうな雰囲気を持っている。背も高い方だろう。
「静流さんに今日会えると思ってなかったから、お兄ちゃんに渡してもらおうと思ってたんだけど、これ……」 そう言って、チョコレートを渡してくれる。「ありがとう」 綾華ちゃんからのチョコレートは嫌じゃないけど、ちょっと複雑な気持ちになるな。「お兄ちゃんにもあるよ。貰いすぎてると思うけど」 俺にとは違う、なんて言ったらいいかわからないが、兄妹独特というか家族だからこその、調子というのか口調というのか、とにかくそういう風に言って、宗司にも手渡す。「食べ切れねぇ。全部食いきろうと思ったら賞味期限切れる」 宗司は綾華ちゃんから受け取りながら、うんざりした顔をする。学校ではこういう顔して受け取ったりはしないんだろうな。いや、知ってる女子からだとこういう態度を取ってるかも。「お兄ちゃん、甘いものそんなに食べないもんね」「そう思うなら、チョコレート以外のものくれよ……」「でも、タロにはチョコ以外のもの買ってきたよ」 そう言って出してきたのは、クッキーのようだ。「ワンちゃん用クッキー。タロ、あげる」 封を切ってタロの口元に持っていくと尻尾を振りながら喜んで食べている。「よかったな、タロ」
「お兄ちゃん宛てのチョコレート、引き取るよ。おいしいのあるもんね」 「出来れば高級ブランドを希望」と付け加えている。「それが目当てか……」「それだけじゃないよ。日頃の感謝の気持ちも入ってるよ」 微笑ましいやり取りに、クスッと笑ってしまう。「あ、静流さんのはちゃんと愛が籠もってるから」 俺の方へ微笑む綾華ちゃん。かわいい。素直にそう思えてしまう笑顔。つられて俺も笑顔になる。
しかし―――。綾華ちゃんは宗司に向き直り、「で、今年は何かあった?」 目を輝かせながら訊く。途端に宗司はうんざりした顔になる。「……何がだよ」「えー、白々しい。男子からの告白とか、もしくは、お兄ちゃんが誰かに告白するとか―――」 うーん……。綾華ちゃんは何故だか知らないが、兄が男とどうこうなることを希望している個性的な思考の持ち主だ[#「個性的な」に傍点]。ことあるごとにそういう話を振ってくるらしい。 今日、ついさっきまで繰り広げられていた俺と宗司の会話を聞いたらどうなるんだろうか。何となく背中が寒くなる。
俺は当たり前といえば当たり前に美術部に所属しているが、美術部にもこういう子はいる。なぜか男同士の恋愛が好きな女子が。 そんな女子に何やら男同士のアレやコレが描かれた薄っぺらい本を見せられたこともある。その時はびっくりしたというか、カルチャーショックというか、なんじゃこりゃと思ったものだ。考えたら、男にそんなものを見せようとする女子に軽く引いたけど(つーか完全にセクハラだろ)、まぁ、今となっては、俺がそういう子たちに何も言えないというか、それらのシチュエーションに実感がこもってきてはいる。だが、宗司をそういう目で見るようになったのはそれらのせいではないと断言したい。
「ねぇよ。あったとしても言わねぇし」 にべもなく言い放つ宗司。「それか、静流さんと一緒にお風呂に入って、その濡れた肢体にドキっとなって、しっぽり……」 綾華ちゃんは宗司の言葉に応えることなく言い放つ。……暴走しすぎ。でもそのシチュエーションは中々よい、とは口に出しては言えない。「いい加減にしろ。っていうか、なんで静流が出てくんだよ」「メガネ受なのよ」「は?」「メガネを掛けてる静流さんは受なの。だからお兄ちゃんは攻でないとダメなの」 目を輝かせながら綾華ちゃんが言う。「わけわかんねぇこと言うな……」 宗司はテーブルに肘を付き頭を抱える。「昨日、机の上に参考書を置いておいたでしょ? 読んだ?」 綾華ちゃん、何やってんの? 参考書って……。もしかして俺が見たようなヤツを見せたんじゃないだろうか。 宗司は無言で立ち上がると机の引き出しから文庫本を取り出す。どうやら俺が見たようなヤツではなく、小説のようだ。「元から読むつもりもねえけど、これを俺に読ませてどうしたいんだ?」「勉強」「何を学べと?」「恋愛を。その本、すごくイイよ。幼なじみの男の子同士が紆余曲折を経て結ばれるの」 満面の笑みを浮かべてきっぱりと答える。何気に内容が気になるが。「お前の偏った恋愛観につきあうつもりはない。早く彼氏でも作ってマトモな道を歩んでくれ」 テーブルにその本を置くと、再びテーブル脇に胡座をかき、後ろ手に座る。「私、彼氏いるけど、それはそれ、これはこれだよ」「……いつまに?」 と呟き、黙り込む宗司。「あ、何、その哀れむような顔は」「いや、お前の外面《そとづら》に騙されてるソイツがかわいそうでな。……その彼氏にもこんな会話をしてるんじゃないだろうな」「だって、そういうのわかって付き合ってくれてるもん」 そういう話してるんだ。程々にね……。「受っぽい彼で萌えるのよ」 受っぽい彼……よく分からないけど、どんなのだろう。さっきから、彼女の会話に突っ込みが追いつかない。でも、この会話に割って入るのは藪蛇な気がする。「俺はその彼氏に同情するよ」 宗司は誰に同意を求めるでもなく呟く。俺も少しそう思う……と心の中だけで思っていると、「静流さん」 綾華ちゃんは俺に声をかけてくる。今度の標的は俺か?「ん?」「お兄ちゃんはお買い得物件ですよー。鎖骨のラインとか超キレイだし。陸上で鍛えられた脹脛《ふくらはぎ》もおいしそうですよ。どうですか?」「いや……」 俺はとっくの昔に君の望む通りになってます。とは言えない……。言ったら、どうなるんだろうか。怖くて言えない。強力な味方にはなってくれそうだけど、それは俺の望む味方だろうか。あと、付け加えるなら、おいしそうなのは三角筋もだ。「綾華」 怒気が籠もった声。「男子が二人いれば、BL妄想するのは腐女子の務めなのよ。悲しい性なの」 言い切った。いっそ清々しい。 しかし、それが本当だとすると、確かに悲しい性だな。男の性とどっちが悲しいかな。「あのなぁ……お前ホントにそういうのやめろ。本気でムカつくから。俺にとってお前は妹だからもう諦めてるけど、静流に絡むなよ」 怒られているはずなのに綾華ちゃんはにやけた顔になる。「静流さんは特別なんだ……」「はぁ?」 俺も「はぁ?」と言いそうになったがなんとか踏みとどまった。「だって、静流さんには、っていうことは、自分は犠牲になっていいっていうことでしょ?」「そういう意味じゃねぇから! お前はホントに……」
「まぁまぁ」 これ以上揉めるのを見ているのもなんだし、割って入ってみる。「綾華ちゃんもそういうのは本人を前に言うことじゃないと思うよ。妄想は口に出さないから妄想なんだし」「お前の指摘もちょっとズレてる気がすんだけどな」「でも、考えるのは止められないだろ」「確かに」「ふふ……。やっぱり萌える」 綾華ちゃんが呟く。何が琴線に引っかかるのかわからないが、何やら彼女には彼女にしか見えていないものがあるみたいだ。「だから! そういうことを言うのを止めろって言ってんだ」 また、会話がぶり返す。「だって……、口から漏れるんだもん」「もう、病気だ、病気。病院行け」「そんな言い方ないじゃない」「言われたくなかったら、その言動を何とかしろよ……」 宗司はため息をついた。
「ちょっくら走ってくるわ。タロ、行くぞ」 そう言って宗司はジャージの上着を脱ぎ捨て、Tシャツにジャージという、いかにもスポーツしますという格好になる。タロが尻尾を振って喜んでいるのがわかる。「あ、俺も、帰ろうかな……」「静流。もし時間あるならさ、部屋で待っててくれね?」 言いたいことは言ったし、これ以上居てもお邪魔かなと思い立ち上がろうとすると、宗司に呼び止められた。そう言えば、話があると言ってたようないないような……。「え? いいけど……」 別にこのまま帰っても、特に何もすることはない……ということはないか、受験勉強をしなければいけないのだが、今日は宗司のことを思って自分を慰めることくらいしか出来ないだろう。「悪いな」「それじゃ、私も静流さんとお話ししてよーっと」 綾華ちゃんが声を弾ませる。「お前は自分の部屋帰れ。どうせ、ロクな話をしなさそうだ」「そんなことないです。大丈夫です」 敬礼のまねごとをする。「静流も迷惑だったら、放り出していいからな」「はは。わかったよ。今日はどれくらい走るんだ?」「いつもと同じ。十五キロくらい。二時間しないうちに帰ってくるから」「わかった」